コニカ デジタルレビオ KD−200Zについて


KD-200Z

☆ジャンク度☆
不具合無し
撮影可能


KD-200Z KD-200Z
このオデコがチャームポイントである。
別に必然性があって盛り上がってるのではなく、外観的に特徴を持たせているだけである。


KD-200Z
 グリップ用のドット時モールドは数少ないKD−300Zとの共通点。

KD-200Z KD-200Z
 操作系は超シンプル。電源を兼ねたモード選択ダイヤルと光学ファインダー、モノクロ液晶パネルのみで撮影できる。

KD-200Z KD-200Z
 上位機種のKD−300Zは光学2倍だが、本カメラは光学3倍ズームレンズを搭載。
 ブランドは「KONICA LENS」でヘキサノン銘は与えられなかった。

KD-200Z
 レンズは保護ガラス付きでレンズカバーは無し。
 沈胴すると、ほぼフラットになる。


KD-200Z KD-200Z
ジョイスティック型のプッシュ式十字キーの採用が珍しい。
操作系は凝ったものではないが、シンプルで使いやすい。

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 オーソドックスなリアビュー。
 電源は単三型電池2本で記録媒体はSDカードを採用。
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外観、レイアウトがミノルタのディマージュE203にそっくりなのだが。

 コニカというブランドが民生カメラメーカーとしては消滅してから久しい。コニカの前身となった小西六写真工業は我が国で最も古い感材・カメラメーカーであった。拙僧もほんのりとサクラカラ―のブランドを覚えている。しかし、物心ついたときには、既に覇権はフジフィルムが握っていた。フジフィルムがシェアを獲得したのは割と最近で、1970年代以降のようだ。一説によると、ラボが見切りをつける程の事故をコニカが起こしたらしいのだが、詳細はよくわからない。
 他の感材メーカーと同様、コニカもカメラを開発・製造していた。我が国で最初に量産したカメラはコニカの前身の小西六写真工業のチェリー手提暗函とされる。戦前戦後と意欲的にカメラを製造し、世界で最初の実用的なフラッシュ内蔵コンパクトカメラであるC35EF(ピッカリコニカ)やオートフォーカスカメラのC35AF(ジャスピンコニカ)の存在は知られるところである。感材メーカーらしく、フィルムの販売促進につながる普及ニーズに力を入れたいた。一眼レフカメラも製造していたが、AF時代に突入する際に撤退している。どうも、開発を依頼していたAF用チップメーカーの失敗が直接の原因となったようだ。なにかとコニカには不運の影がまとわりつくなあ。フジフィルムもAF時代になって一眼レフカメラから撤退しているし、AFカメラへの移行には大きなハードルが有ったのだな。コニカはデジカメ世界大戦に割と初期の頃から参戦しているが、露骨にOEMだったり、Q−M100Vのように完成度がイマイチだったりして、作戦は限定的であった。旧世紀にはコニカは6種類しかデジカメを出していない。ライバルのファインピクスの電撃苦戦による大展開に比べると、あまりにも消極的である。1999年の6月以降、約2年渡ってデジカメ市場での作戦は完全に休止した。21世紀になって2001年の3月に35万画素級のe−miniDなど3種類を出すが、これはおもちゃデジカメの域を脱しておらず、老舗メーカーのコニカの看板を任せたモデルとは思えない。多分、どこかのOEMだろう。調べたわけではないが、ビビターあたりのブランドでも発売されていたのではないだろうか。本格的な戦略モデルの登場は同年の7月であり、300万画素級のKD−300Zと200万画素級のKD−200Zである。本ページの主人公は後者のKD−200Zである。
 新しいコニカのデジカメにはデジタルレビオのペットネームが与えられた。レビオはコニカがAPSカメラにつけていたペットネームである。キヤノンのIXYと同様な次第だが、レビオのネームバリューの方はイマイチであるな。300万画素級の上位機種と、200万画素級の普及機種の姉妹関係は、当時のごく普通のクラス分けだった。だが、大抵の場合は撮像素子だけが異なり、本体はカラーリングくらいしか違わないのが普通だったのに対し、KD−300ZとKD−200Zは外観もさることながら、構造的にも大きく異なっていた。大きさは本カメラの方が一回り大きい。KD−300Zは当時、最も小さい部類のカメラとして名刺サイズを誇っていた。レンズは本カメラが光学3倍ズームレンズなのに対し、KD−300Zは光学2倍ズームレンズに留まる。最大の違いは本カメラが単三型電池2本使用なのに対し、KD−300Zは薄型の専用電池を採用していた。外観上で似通っているのは、ボディ前面のグリップ部のドットモールドぐらいだ。双方は設計思想がまるで異なっていたと言っていい。これにはコニカの余裕から複数の生産ラインを用意したのではなく、全く逆の事情が見え隠れする。
                ☆           ☆
 本カメラにスポットライトを当ててみよう。特徴的なのはボディ上部の人間で言うオデコの部分の張り出しである。なんだかリーゼントにも見える。これは機能的な都合でこうなったのではなく、単純にデザイン上の遊びである。あえて言えば沈胴した状態のレンズと面一になっているので、レンズを下にして置いたときにバランスが良い。もっとも、そうでなくても本カメラはレンズカバーを内蔵していないのに、レンズを下にしてボディを机なりに置くのは危険であろう。もっとも前のレンズはプロテクターであり、多分強度を持たせてあるのだと思われるが、気を付けていても指紋が付くのが気になる。拙僧はレンズをティッシュで拭くのに抵抗はないが、嫌な方もいらっしゃるだろう。当時、超コンパクトとされていたKD−300Zに比べればやや大振りだが、単三型電池を使用するカメラとしては小型で、バランスの良いパッケージングと言えるだろう。スペック的には電源が専用電池ながらIXYデジタル300に近い。しかし、IXYデジタルの方がサイズは小さいが、金属製外装で質感が良いものの重さが意外にある。130万画素級だが、同じ単三型電池2本使用のオリンパスC−1Zoomに比べると、本カメラのコンパクトさは目を引く。
 撮像素子は211万画素級で35〜105mmF2.8〜4.6の光学3倍ズームレンズを組み合わせる。最短撮影距離は25cmと平凡だが、望遠側でも寄れるので実用的だ。ボディ上部にはレリーズボタンとモードセレクトダイヤルのみを配置し、素っ気ない。電源スイッチを兼ねたモードセレクトダイヤルには「マニアル撮影モード」「(オート)撮影モード」「OFF」「再生モード」「セットアップモード」を割り当てる。マニアル撮影と言っても任意の露出を設定できるわけではなく、露出補正やデジタルズーム、スローシャッターの有効を切り替えるものである。動画撮影やモノクロ撮影もできる。当時のキヤノンの単三型電池仕様の普及機であるパワーショットA10A20に比べると、機能豊富と言えよう。
 モードセレクトダイヤルの回転にて電源ONとなり、約4秒弱で撮影可能状態に遷移する。当時のデジカメの起動時間としては短いほうであろう。但し、起動時には液晶ビュワーは非表示である。21世紀に至っても、液晶ビュワーを非表示にし、光学ファインダーとモノクロ液晶パネルを使用して、電池消耗を抑えながら撮影するスタイルが成立していたのに驚く。本カメラのモノクロ液晶パネルの諸情報は豊富で大抵の撮影には困らない。実際に拙僧は殆ど液晶ビュワーを使わずに撮影した。モノクロ液晶パネルの上には「オート」「赤目減光」「フラッシュ強制発光」「夜景ポートレイト」「フラッシュ発光禁止」「遠景」「マクロ」「セルフタイマー」の各種撮影モード、下には3段階の画質モード(クオリティ)のアイコン・ガイドが印刷されており、モノクロ液晶パネルに表示するカーソルで現在のモードを知ることが出来る。モノクロ液晶パネルの右側には上下に「MODEボタン」と「PICTURE」ボタンがあり、前者は撮影モード、後者は画質モードのインクリメンタルに変更する。困ってしまうのは撮影モードの変更で、カーソルの移動が一方通行の上に、それぞれのモードにセルフタイマーを組み合わせるので、「セルフタイマー付きマクロ」で撮影したい場合は「MODEボタン」を13回も押す必要がある。いや、「セルフタイマー付きマクロ」なんて使わないと思うかもしれないが、うっかりカーソルが行き過ぎてしまった場合にも、やはり10数回も「MODEボタン」を押さなければならないのだ。一度電源を切ればよいようなものだが、本カメラは電源OFFしても撮影モードを覚えており(セルフタイマーはキャンセルする)、再度電源ON時にも一度だけ「MODEボタン」を押下すれば再び電源OFF時のモードにカーソルが移動するのだ。これは続けて「フラッシュ発行禁止」や「マクロ」撮影したい場合には便利だが、カーソルが行き過ぎた場合には10回以上のボタンの連打が必要となる。本カメラには特徴的なジョイスティック型プッシュ付き十字キーがあるのだから、これが活用できればよいのだが、そうはいかないのである。このプッシュ付き十字キーの建付けはそれなりに良好で、同世代のソニーの物よりずっとミスが少ない。親切なのは電池を抜いてかなり経過しても、設定した日付を覚えているのだ。一瞬でも電池蓋を空ければ、全てを忘れてしまうカメラもあるので良心的だろう。
 レリーズ後のレスポンスは標準的な物である。AFやAEも安定的である。やや発色が誇張的だが、ラチュードもふくよかで安心して撮影できる。リコーのキャプリオG3やパナソニックのルミックスDMC−F7は大いに見習うべきだ。
                ☆           ☆
 KD−300Zが、実際のところ京セラのカメラの名前を変えただけなものだということは、当時から良く知られていた。ニコンやオリンパスのカメラだって製造したのは三洋だったりしたが、無論カメラとしてのデザインは独自の物で、名前とフロントパネルだけ変えた訳ではない。ほぼ同じものがマクセルのZD3としても発売されている。なので、当時はコニカの血統はKD−200Zにこそ受け継がれているとしてたメディアも散見出来た。しかし、そういう意味で言うと本カメラの血統性は怪しい。何故なら、ほぼ同じレイアウトのカメラをミノルタがディマージュE203として発売しているからだ。本カメラの特徴的なリーゼントは普通の角刈りになっているが、レンズやフラッシュのレイアウトは同一だし、なにしろリアビューは全く同一である。果たして本カメラがコニカの製造の物なのかミノルタの製造のもなのかは分からない。ディマージュE203の方が僅かだが後に発売となっている。300万画素級のカメラは他社に任せて200万画素級のカメラは自社で製造するというのは疑問である。本カメラの登場の約2年後にコニカとミノルタは合併し、その数年後には民生カメラからは撤退してしまう。合併のきっかけになったのが本カメラなのだろうか。
 KD−300は絵作りは美しいが、全く使い物にならないバッテリーのお蔭で恐らく現在でも稼働状態にある個体は殆どないだろう。それに比べると、本カメラは100円ショップの単三型充電式電池でも1〜2日の作戦行動が可能である。ヴィヴィットでイイ感じの画像が撮影できるので、ジャンク駕籠で500円以下で転がっていたら拾ってほしい。

 では、撮影結果(秩父散歩 その1編)を見て頂きたい。

(了:2011/12/28)

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